ヨハネによる福音書 17章1~13節 桝田翔希牧師
家族というものについて、現代では多様な形があるということが叫ばれています。聖書の時代では、男性の家父長に権力が集中する「家父長制」がありました。日本では明治憲法で制定された「家制度」があり、現代の法律で家制度はなくなりましたが、未だに感覚として根強く残っているものではないかと思います。その一つに「戸籍制度」があります。日本にいると当たり前の制度のように感じますが、このような制度は日本にしかないのだそうです。この制度は政府によって理想化された家族像(モデル家族)でしか個人を見れないということであり、多様な家族のことは念頭に置かれていないのだそうです。
ヨハネによる福音書の17章は、訣別説教の最後の部分でイエスによる祈りが書かれています。この箇所で特徴的なのは、「父よ」という呼びかけが何度も繰り返されているということです。教会では、信徒同士が「家族である」というようなことが、ずいぶん昔から言われてきました。これは既存の「家族像」を越えた血縁関係に拠らない家族像であります。またイエスの祈りの内容は、「栄光」というものが出てきます。イエスの栄光はこの世の敗北と感じられる十字架の上で示されました。すなわち、この世の価値観、肉の目で見るのではなく、信仰の目ではじめて「栄光」を見ることが出来るということです。イエスが「父よ」と呼びかける姿も、信仰の目で見ることが必要なのではないでしょうか。
様々な家族のかたちがある現代は、戸籍制度にみられる理想の家族像に収まりきらない時代となっています。しかし私たちはそのような固定概念に拘束されてしまいます。「ホモ・カテゴリクス」という言葉があるそうで、これは「何ごとも分類してカテゴリ化しようとする人間を指す言葉(キム・ジヘ『差別はたいてい悪意のない人がする―見えない排除に気づくための10章』2022年、p.46)」なのだそうです。オールポートという学者は『偏見の心理』という本の中で「人間の心は、カテゴリがあるからこそ思考ができる。(…)そうすることで、やっと秩序ある生活ができる」と分析したそうです。難しい言葉で言われている気がしますが、私たちは生活する中でカテゴリーをつけたり、パターン化したりということはよくあることだと思います。単純化されたカテゴリーはやがて固定概念へと変えられていきます。しかし「固定概念は、対象そのものではなく自分の『頭の中にある絵』にすぎない(キム・ジヘ、2022年、p.51)」のであり、時として私たちの思考をかく乱することとなります。イエスが語った「父よ」との呼びかけは、固定概念に思考をかく乱されて見るのではなく、信仰で見なくてはいけないのではないでしょうか。
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