ヨハネによる福音書 10章7~18節 桝田翔希牧師
最近スーパーで売られている安いステーキ肉をよく買います。関税の引き下げなどの要因があるそうですが、非常に安くで肉が売っており、焼くだけで済むので良く買ってしまいます。値段が安いのは関税だけが原因ではなく、大企業によって大規模に生産される牛肉は価格も安くなるのだそうです。人間は動物を食べること以外にも様々に利用するわけですが、このような動物を指して「経済動物」というのだそうです。聖書には羊飼いや羊という言葉が頻繁に出てきますが、聖書の世界において羊は様々な場面で利用される重要な「経済動物」でありました。
イエスは羊や羊飼いを通してたとえ話を語られました。当時にあってたとえ話の真意を理解できた人はほとんどいなかったわけですが、わからない人を排除するのではなく、繰り返し粘り強くたとえ話を用いて語られました。羊飼いと聞いても日本ではあまり見るものではないのでイメージは沸きませんが、イスラエルではジャッカルをはじめ羊を狙う野生動物もいて羊飼いは日々それらと闘っていました。この聖書箇所で、よい羊飼いは羊のために命を捨てるということが言われますが、単なるたとえではなく羊飼いという職業の厳しさを知ることが出来る表現です。しかし、「命を捨てる」という言葉は決して美化されてよい者ではありません。イエスは神の子として復活の恵みを示されましたが、一方で人間としての痛みや苦しみがありました。イエスが死なれたということは当たり前の出来事ではないのです。
情報が多い今日にあって私たちは、凄惨な事件によって失われる命や、戦争によって失われた命の数に日々触れます。その中でどこか慣れてしまっているような感覚を覚えます。また、私たちは精肉された肉を購入することが多いですが、陳列されたパックから「命」を想像するのも難しい状況にあります。食事の時は命に感謝して残さず食べようと思うことがよくあるのですが、「牛は自分のいのちを生き(…中略…)人間のために生きているんじゃない(本橋成一『うちは精肉店』2013年、p.34)」との言葉にハッとさせられたことがありました。「命」は人間の食事のために生まれてきたわけではないのです。私たちはついつい人間本位の考えをしてしまいがちなのかもしれません。「命が軽視される」そのような事態が多く起こる今日にあって、私たちはイエスの命をどうとらえているでしょうか。十字架を通して示された恵が確かにありました。しかし、一方で人間としての命は、ただ命として生きていたということも忘れてはいけないのではないでしょうか。だからこそ、苦しみの中から希望を語られたのではないでしょうか。
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