ヨハネによる福音書 15章1~11節 桝田翔希牧師
個人的な趣味はいくつもあるのですが、その一つが食べた果物の種を蒔くということです。その内、ライチやパパイヤなどが食べ放題になったらいいなぁと思いながら、せっせと種を蒔いています。ある時、「おいしいブドウがあったから蒔いてみた」と言っておられる方がいて親近感を覚えました。しかし、その方は続けて「おいしいブドウの種がおいしいぶどうの木になるとは限らないらしい」と言われました。ブドウの苗として流通しているものの中には、「接ぎ木苗」というものが多くあるそうで、種から芽を出して苗にするということは手間のかかることなのだと思います。
今回の聖書箇所は「最後の晩餐」の後の「告別説教」と呼ばれる箇所の一部です。「ブドウ」という単語は聖書の中で繰り返し用いられるものですが、ここでもぶどうを引き合いに出して、その世話をするのは神であるとされています。果樹には「忌枝」と呼ばれ、交差していたり木全体の成長から見ると切ってしまった方がよい枝があります。木の世話をする神は、不要な枝を断ち薪にくべるような姿が聖書には描かれています。幹であるイエスにつながり続けなければ、人間は神の命を得ることが無いというのです。しかし、排除だけが神のなさることなのでしょうか。木に枝を継ぐ「接ぎ木」という行為は、日本でも古く平安時代から行われていたようです。イスラエルではどうかわかりませんが、接ぎ木する神のイメージも大切なのではないかと思います。
私たちが生きる社会を見た時、様々な人間が様々な個性や文化をもって生きています。一本の木に同じ果物がなる大きなぶどうの木というよりかは、一本の木に様々な品種のブドウが接ぎ木されたようなものではないでしょうか。ブドウの品種はそれぞれに育て方が微妙に異なると思います。その一つ一つを気にかけて、神は養ってくださるのではないでしょうか。私たちが生きる世界は、複雑で多くの問題を抱えています。重大と思われる問題があれば、小さいと思える問題は無視され不可視化されていきます。ある枝の影に覆われてしまいます。しかし、神の命の幹に繋げられるということは、そのような一部で不可視化が起こるようなことはあってはいけないのではないかと思います。私たちはどのような幹につながれた枝なのでしょうか。
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