マルコによる福音書 10章32~45節 桝田翔希牧師
コロナの影響によりパソコンを利用したリモートワークなどが注目されるようになりましたが、パソコンさえあればどこでも仕事ができる業種が注目されています。また、雇用形態も今までよくあった会社や組織に属するということではなく、「フリーランス」と呼ばれる形態も増加しています。Webデザイナーやシステムエンジニアなど最近はやりの職種で、フリーランスとして働く方々が多いそうですが、時代の流れの中で何となく「フリーランス」という言葉に魅力を感じるものではないでしょうか。
イエスが宣教を始めた初期に、ガリラヤ湖で弟子に招かれたヤコブとヨハネは、いわば一番弟子のような立場にありました。イエスの生き方を長くまぢかで見ていた二人でありましたが、イエスが栄光を受ける時に自分たちの席を左右に用意してほしいとイエスに願います。受難や復活を通して示される栄光ではなく、この世的な栄光に惑わされてしまったのです。イエスはこれに答えて「支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている(43節)」と語りました。「支配(カタキュリエウエイン)」という言葉は、押さえつけるというような意味があり、そのような権力構造にこそ注意せよという意図なのではないでしょうか。民衆として生きてきた弟子たちは、多かれ少なかれ経済的「権力構造」や政治的「権力構造」の中で搾取を経験したことがあったことでしょう。弟子が望んだのは、この世の構造を不問に「成り上がる」ことだったのです。イエスは「偉くなりたい者は、皆に仕える者(43節)」になりなさいと、権力構造を解体するような発言をします。
私たちもまた、支配被支配の構造の中で搾取を経験します。そして成り上りたいと願うことも不思議なことではありません。そして構造は温存されたままで、新しい言葉でごまかされることもしばしばです。フリーランスという華々しい言葉は、裏を返せば「組織に雇われて働くということが想定できない」ということでありますし、「ゼロ時間契約(雇用主から要請があった時だけ働く、という雇用形態。要請が無ければ収入はゼロ)(ブレイディみかこ『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー2』2021年、p.84)」という働き方に他ならないのです。便利に使われる人間がまたしても増やされているのです。イエスが指摘した権力構造は、現代でどうでしょうか。イエスの杯と洗礼は、成り上がりたい誘惑とどのように関係しているのでしょうか。
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