マルコによる福音書 14章32~42節 桝田翔希牧師
戦争が美化され聖戦と呼ばれることや、戦死者を英雄視するということは世界の歴史を見るとき繰り返し行われてきました。人が死ぬということは悲しいことであるにも関わらず「まるで錬金術のように、『遺族感情』が一八〇度逆のものに変わってしまう(高橋哲也『靖国問題』2005年、p.43)」ということが起こります。戦争という現場は、感情が置き去りに美化されていく現場であるということを思わされます。
イエスは捕まる前、最後の晩餐の後にオリーブ山に登られ祈られました。その様子は「イエスはひどく恐れてもだえ始め(33節)」、「死ぬばかりに悲しい(34節)」と聖書は説明します。神の御心とは言え、進んで死んだのではなく苦しみながら人間としての苦しみを持つイエスの姿があります。しかし弟子たちが持つメシア像は、この世的な英雄的なメシア像でありました。「この杯をわたしから取りのけてください(36節)」と祈るイエスとは真反対の姿です。戦争で兵士が死に、その死が美化される姿とは全く違うのです。
日本のキリスト教は第二次世界大戦という状況の中で、「キリストの血の意義」と「英霊の血(「靖国の英霊」日本基督教団新報、1944年)」を並べて理解しました。今でこそおかしな考えであるとわかるものですが、私たち人間は「イエスの死」をこの世的なメシア像で理解してしまう危険性があるのです。イエスが示される復活の栄光は、戦争が起こっている今日にあってどのような問いを私たちに投げかけているのでしょうか。
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