マルコによる福音書 1章12~15節 桝田翔希牧師
ウクライナで起こっている侵攻が日々報道され、「荒れ野」のようになったウクライナの街が映し出されます。住民を巻き込み兵士も多く命を落としていますが、武力が直接的に「人間を失わせる」ものであることを改めて知らされます。一方で「悪」のイメージで映されるロシア軍のヘリコプターが墜落する様子を見るとき、そこにある人としての兵士の恐怖を考える想像力が失われるように思います。「悪・兵士」としか人間を見ることができない、これもまた戦争によって「人間を失わせる」力であることを感じます。
イエスはヨハネによる洗礼の後、荒れ野でサタンに向き合い試練にあったと聖書は語ります。荒れ野は神の支配が届かない(逆にだからこそ神の力があるという両義性もありつつ)場所として象徴的な単語です。またサタンも同様に「神と人との関係を断つもの」という意味合いがあります。マルコはこの場面を簡潔に説明するにとどめていますが、「獣」もいたことを記録しています。「獣」と聞くと「弱肉強食」という言葉が連想されますが、創世記をはじめ神が理想とする世界は、獣が自分より弱い存在を食べる「弱肉強食」ではなく、すべての命が平等に憩える世界でした。
私たちが生きる世界は、競争社会と呼ばれまさに弱肉強食の時代と言えるでしょう。私たちは現代社会を生き抜くために、様々な努力をします。一方で特に努力せずに得られるもの、すなわち「特権」と呼ばれる「与えられた社会的条件が自分にとって有利であったために得られた、あらゆる恩恵(キム・ジヘ『差別はたいてい悪意のない人がする――見えない排除に気づくための10章』2022年、p.30)」があります。私たちこそが「弱肉強食」の社会構造を担保する力を、知らず知らずに有しています。イエスは当時の権力者や律法学者のような宗教的特権階級に対して批判の声を上げました。社会構造の批判があります。神の理想から離れて弱肉強食が良しとされる現状への否であるのではないでしょうか。私たちもまた、現代社会を見るとき、人間性が失われる上下関係のある残酷な社会、まさに「荒れ野」のような時代です。私たちは与えられた恵である命をどのようにとらえ、どのような選択をしているのでしょうか。
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