マルコによる福音書 9章2~10節 桝田翔希牧師
ウクライナへの全面的な侵攻が開始されてから、1か月の時が過ぎました。依然として激しい戦闘の様子が報道され、建造物が瞬く間に瓦礫の山になっていく状況があります。戦争という状況の中、私たちはどのように聖書を読んでいるでしょうか。旧約聖書の中で祭司文書と呼ばれる文書群は、戦争の影響によるバビロン捕囚という経験の中で執筆されたと言われています。エルサレムが攻められ、捕囚の民として多くの人たちが異文化の土地に連行されていきました。形に残るものではなく、精神として他者には破壊できないものが後世に伝えようとされています。
今回の聖書箇所は、「山上の変容」と呼ばれる箇所で、イエスの変容がモーセとエリヤを伴う「神の啓示の出来事」として描かれています。しかし、弟子たちは恐れるばかりでその意味が分かりませんでした。ペトロは3つの仮小屋を建てようと提案します。実際に仮小屋が立てられたという記述はないので、ペトロの返答は「弟子の無理解」として描かれているということでしょう。間違いな返答であったようですが、その後に続く神の声はペトロを否定するのでなく「これに聞け」という呼びかけでした。
「弟子の無理解」という文脈で言えば、あからさまな否定があっていいような気もしますが、神の声は否定でも肯定でもなく、招きの言葉でした。私たちが生きる社会は不寛容なものへと変わっています「私たちは失敗することもできませんし、不幸でいることも許され(岸政彦『断片的なものの社会学』2015年、p.240)」ないような世の中です。神の声は誰かを否定するのではなく、記念碑のようにいつか崩れ去ってしまうものではなく、長い時間をかけて人間を招こうとしておられるのではないでしょうか。イースターを控え、聖書は安易な答えを示してはくれません。私たちも招き続けられる存在なのです。
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