キリスト教と一言で言ってもカトリックやプロテスタント、聖公会やバプテストなど歴史背景や考えの違いにより様々な宗派があります。世間ではカトリックやプロテスタントはほとんど混同されているように思いますが、礼拝の形や用語などは大きく違います。キリスト教とひとくくりにされますが、その中にあるは多様な姿があります。
マルコによる福音書8章27~33節は「ペトロ、信仰を言い表す」とタイトルのつけられた箇所です。マルコによる福音書では、このあとの部分からイエスの受難に向かう気配が強くなってくる箇所でもあります。「何者だと思うのか」と問われた弟子たちのなかでペトロは「あなたは、メシアです(29節)」とその信仰を告白します。マタイによる福音書ではこの発言が高く評価されていますが、「受難」を知らなかったとはいえ、実を告白した言葉でありました。
「告白」ということに関して言えば、現代の教会では礼拝中に読まれる「信仰告白」や、洗礼の際に表明される「信仰告白」があります。洗礼の際にされる信仰告白は古くからされてきたことのようで、ローマ帝国の公認の宗教となり迫害も落ち着いた4世紀ごろには多くの場所で、ある程度のプロセスを経て洗礼が行われました。その頃の洗礼のプロセスを見ますと「洗礼志願者による信仰表明はそれ自体が洗礼プロセスにおける中心的な要素であった(P. F. ブラッドショー『初期キリスト教の礼拝 その概念と実践』2006年、p.73)」そうです。また洗礼とは喜ばしい出来事でありますので、これとセットの信仰告白もまた喜ばしいものです。洗礼の際にされる信仰告白とは、歴史あるものであり、また喜ばしいことと言えるのではないでしょうか。しかし告白したペトロにイエスは「だれにも話さないように」と付け加えます。これはどのような意味があるのでしょうか。
カトリックには「告解」と呼ばれるものがありますが、フランスの哲学者であるフーコーは
「自白/告白」が宗教改革以降も教育や医療、家族といった「多様な関係における『自白』へと拡散(小林昭博『同性愛と新約聖書 古代地中海世界の性文化と権力構造』2021年、p.46)」したと指摘しています。そして「『正常』と『異常』(病理)とに診断・治療するための『大がかりなメカニズム』(同上p.49)」へと拡大されていったと考察します。「告白」を聞くときそれを良しとされるのは人間ではなく、神なのです。多くのキリスト教の教派があり、キリスト教にも多様性があります。ペトロの告白も、イエス以外にすることは意味が無かったということなのではないでしょうか。私たちも自らが「正常/異常」の判断を下すことがありますが、その権限は神にあることを忘れてはいけないのです。
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