マルコによる福音書 4章21~34節 桝田翔希牧師
この2年間は、コロナの影響により社会で思いもかけないことがよく起こりました。マスクや消毒用アルコールが店頭から姿を消すということがありましたが、少し世の中の流れが変わるだけでこのようなことになるのかと驚きました。コロナ禍にあって政府の対応はよく批判されますが、私も素人ながら「何とかならんものか」とも思いますが、世の中は複雑な論理で動いているということを思わされます。
今回の聖書箇所では、まず「『ともし火』と『秤』のたとえ」ということが語られています。当時にあってオイルランプは部屋を照らす大切な道具でしたので、升の下に置くなど当然されませんでした。二つの譬えは「格言」と言った方が適切なようで、ユダヤ教の文化の中ではよく言われた言葉であったようです。「格言・ことわざ」ですので、日常生活では当たり前のことが指されています。続いて「成長する種のたとえ」も当たり前の自然の様子が書かれています。当たり前でありながら、これらのことが困難になることもあります。マルコ教団が置かれた状況を考えるならば、迫害の中にあってはキリストを「世の光」と信じることは困難なことでありました。また、「成長する種の譬え」も実際に農業従事者が聞いていたとしたら、そんな簡単なことではない、という思いが出たのではないかと思います。農業は様々な場面で適切な作業が必要となります。世の中の不思議な出来事の多くは原因が究明され、私たちも様々な理論を知りながら自然を眺めています。世界の理の多くを人類は知るようになりました。
しかし、簡単な勘違いで世界を誤解してしまうということもよくあることです。1960年代に歴史家のリン・ホワイトは「環境に対するキリスト教の影響を問いただす(『スペクテイターVol.49』2021年、「特集 自然って何だろう」)」論文を発表し、キリスト教が歴史の中で環境破壊の元凶であると批判しました。創世記の「生き物をすべて支配せよ(1:28)」との言葉は、「人間が自然を搾取しても許される存在である」という解釈がキリスト教で長くされていたのではないかという批判です。現代では環境問題が広く共有されるようになりましたが、人間は少しの勘違いで「君臨的」になってしまうということに気を付けなくてはいけないのではないでしょうか。聖書が語る当たり前は、人間の欲望でゆがめられる時があり、私たちも決して無関係ではありません。種が成長する姿を見るように、私たちはこの世界を見ることができているでしょうか。
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