マルコによる福音書 1章9~11節 桝田翔希牧師
宗教離れという言葉をよく聞く昨今ですが、お正月になると初詣をする人の多さに驚かされます。日本では伝統的な宗教観として、自然に神が宿るという考えがありますが、これは旧約聖書が書かれた近辺の社会でも同様でした。そして旧約聖書では神の「霊」に「風」のイメージがよく用いられました。聖書の中で「聖霊」は様々なイメージで語られていますが、鳩として描かれた場面もありました。
今朝の聖書箇所はマルコによる福音書で、イエスが洗礼者ヨハネから洗礼を受けるという箇所です。マルコによる福音書の記者はこの物語をもって、イエスの公生涯を語り始めました。ここでイエスの洗礼時に「天が裂け」、「“霊”が鳩のように」降ってきたとあります。旧約聖書の伝統から言えば、「天が開く」と言った方が伝統に即しているということになるそうですが、ここでは敢えて平和的なイメージではなく「裂ける」という表現が使われたそうです。そして、洗礼の際に鳩のような霊が降るという奇跡的なことまで起こっています。イエスの誕生も、今回の場面も常人では経験しないような奇跡があり、イエスの権威を感じるものでもあります。
「霊」には「風」の他に「息」というイメージもあります。天地創造の時、神は土人形に息を吹き入れることで生きる者とされました。ここには神が命を与える方であるというイメージがあります(A. E. マクグラス『神学のよろこび』2017年)。私たちは一人ひとり、神から与えられた命を生きています。これは同時に私たちは「神によって霊を吹き込まれた生命であり、人間は本来霊的存在といえるC. S. ソン『イエス 十字架につけられた民衆』1995年」とも言えます。このことは人間として生きられたイエスに対しても当てはめることができます。イエスを生かした聖霊の力の故に、「イエスと我々は根本的につながっている(C. S. ソン同上)」のです。イエスの物語を見るとき、人間離れした技にばかり注目してしまいますが、私たちと同じ苦しみを背負い、神からの使命を生きられたのです。そう考えた時、イエスの洗礼は権威を付随するのではなく、神からの使命を確認する場面ともいえるのではないでしょうか。私たちにも等しく望む聖霊の力は、私たちにどのような使命を授けているのでしょうか。
Comments