マルコによる福音書 1章40~45節 桝田翔希牧師
先日、CSに関する議論をしていて、伝道という意味でこの業を考えると、数十年先のためのことではないかということを感じました。しかし数十年後の社会のことなど想像もつきません。人間という存在の小ささを感じます。一年の計は元旦にありと言いますが、1年の計画ぐらいなら何とか立てられるものですが、数十年先の計画はなかなか想像できるものではないのではないでしょうか。
「重い皮膚病を患っている人をいやす」という箇所で、イエスがどこにいたのかということは明確に書かれていませんが、「人里離れた所(寂しい場所)」や街の中を行ったり来たりしていたようです。当時にあって重い皮膚病は、感染するかというより宗教的に隔離されたものでありましたから、「この人」も街から離れた場所にいたことが想像できます。イエスによって癒されたこの人は、「だれにも、何も話さないように気をつけなさい。」と告げられましたが「言い広め」ました。「言い広める(ケリュッソー)」という言葉は39節などで「宣教」と訳されている言葉で、ただ単に言い広めるというだけではなく、神との出会いの中で言い広めたという意味としても取ることができます。「宣教が神ご自身の活動である(デビッド・ボッシュ『宣教のパラダイム転換』2004年)」ということならば、「言い広めた」という出来事は神が共におられる業であります。
日本の宗教観では、「神さま」はと「高いところにおいて崇まつろう」という意識があると思います。聖書の神もそのような姿はありますが、気を付けないと「神道的な『神』概念と何も変わらなくなってしまう(「説教者のための聖書講解釈義から説教へ」1988年、64号、村椿嘉信「政治的説教の必然性」)」ことになります。イエスは神を親しみのある「父よ(アバ)」と呼びかけられました。上からの神ではなく、共にいる神なのです。一人の人が言い広めたところで、世の中への影響力は大きなものではありません。しかし、この出来事は神がおられたということであり、神ご自身の活動であるのです。私たち一人一人も小さな存在ですが、神の活動は私たちを活かす力であると信じたいと思います。
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