マルコによる福音書 1章21~28節 桝田翔希牧師
先日の17日は阪神淡路大震災より27年目の年でありました。これを覚えて兵庫教区では追悼礼拝がオンラインで守られましたが、礼拝中で「被災教区の震災5年目の宣教にあたっての告白」というものがありました。この告白の中に「被災の現実から教えられたのは、隣人への関心、関係の豊かさを生きることであると信じる」という言葉がありました。震災は「死」による関係性の断絶に加え、様々な事情で生活の場を離れなくてはいけない方もおられ、コミュニティが大きく変えられる時でもあります。震災の影響の中で「関係性の喪失」は大きなものであると思います。
マルコによる福音書はイエスの活動について、癒しの物語を最初に記録しています。「汚れた霊に取りつかれた男をいやす」という箇所では、悪霊を払うことを通して病の癒しを行いました。会堂でイエスが律法学者とは違うあり方で教えを語っておられた時、「悪霊に取りつかれた男性」が登場します。「ナザレのイエス、かまわないでくれ。(24節)」関係性を否定するように悪霊は語りますが、イエスはこれを言葉によって取り除きました。私たちは病気を患い病院に行くと、「治療」を希望します。それは病理学や細菌学などをもってして病の原因が追究され、適切な処置が行われるということです。しかし見方を変えると病人という一人の人間を徹底的にバラバラに分解し、悪い部分を特定してそこだけ治すことになる恐れが強い(『人間イエスをめぐって』1998年、川越厚「治癒者イエス」)」ということと同時に、「病人を癒すというところまで踏み込むことは難しい(川越厚、1998年)」とも言えます。
イエスの治癒奇跡を現代的な感覚で見るとき、病の原因が取り除かれたということに注目しがちです。しかし、当時にあって病は、病そのものの苦しみだけではなく、神の罰としてその人を断罪し、「宗教的・文化的な価値観で作られる偏見によって、一層深く『病気』に苦しめられ(山口里子『新しい聖書の学び』2019年)」排除されました。「治療」だけではその人の苦しみは終わらなかったのです。イエスは、病の原因を取り除く治療を行ったのではありません。「癒しの奇跡」とは関係性の中に生きる人間の尊厳が回復されるという出来事なのです。関係性の中にたてられた教会は、イエスの治癒奇跡と強いつながりのある共同体であるのです。
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