ルカによる福音書 4章14~22節 桝田翔希牧師
アドヴェントを迎えましたが、クリスマスは日本の世間でも広く受け入れられているイベントです。しかし、この現象はキリスト教が受け入れられていたり、普及しているということは全く別のことです。私自身、自己紹介をするときに「肩書」として牧師ということが多いですが、不思議がられたり、怪しまれたりします。私たちの社会では、肩書がとても重要視されます。どの大学を出たとか、海外の大学を出たとか、どのような仕事をしていたとか、そのようなことでまず人間が評価されます。講演会のチラシを見ても、講師のプロフィールにはそのようなことが書かれます。一方では仕方のないことでもあります。
イエスは、危機的な状況ということもあり、故郷のガリラヤ/ナザレに帰ります。うわさ話は広がっていたようで、多くの人たちがイエスの話を聞きました。そしてイエスがまさに育ったナザレの馴染みのシナゴーグでイエスが説教をしました。しかし、反応はよくなく人々は「ヨセフの子ではないか」と言い、イエスはナザレから追い出されてしまいました。ヨセフは大工であったと言われますが、ここでイエスは「(大工の)ヨセフの子」と呼ばれています。すなわちイエスの肩書です。この方が気に注目するが故に、人々はイエスを受け入れることができませんでした。決定的な溝ができてしまったのです。
肩書によって異なる立場にある人が決定的に分裂することはよくあることです。例えば、伊江島で土地を基地にしようと仕事をする米兵と、平和運動を行う人たちは立場として見れば決定的に違います。反戦活動をずっと行われた阿波根昌鴻さんは島民として、まったく立場の違う米兵たちを相手にするときの姿勢として、「決して責めているだけではいけない、相手の立場に立って相手も幸せにする(阿波根昌鴻『命こそ宝 沖縄反戦の心』1992年、p.183)」というのが伊江島式の農民の闘い方だと説明されました。「銃剣を持って来る人の立場も考える(同上、p.185)」ということです。聖書でも私たちの生活でも、肩書や立場による分裂が当たり前のように存在します。しかし、神の福音はその立場を関係しないものであると信じたいと思います。違いを受け入れ合い、相手の立場に立って相手も幸せにする、そのような思想がキリスト教にもあると信じたいと思います。
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