ルカによる福音書 1章5~25節 桝田翔希牧師
街中の様子からもクリスマスが近いことを実感することができますが、教会の執務としてこの時期はクリスマスの献金依頼が増え、郵便物の分類に苦労する時期です。クリスマスはイエスの誕生を覚えるというときですが、教会の特色として社会の中の様々な団体を覚えるということがあると思います。キリスト教という組織は、伝統として社会の中にある様々な痛みを覚えるということがされてきました。そしてこの「痛み」に連帯するという姿はキリスト教の大きな要素の一つであるといえるのではないでしょうか。クリスマスはそもそも喜びだけではなく、その背後ではヘロデ王による2歳以下の幼児虐殺という痛ましい事件もあり、この時にあって社会の中にある様々な痛みを覚えるということはとても大切なことです。「痛み」ということを考えると、誰しもが経験するものでありながら共有が難しいことです。風邪をひいてのどが痛くなったり、虫歯になったり、多くの人が経験する痛みであっても本当の意味で共有することができず、非常に個人的な事象だと言えます。
イエスの母であるマリアから見て親戚にあたるエリサベトは高齢で妊娠し、その子どもは洗礼者ヨハネになりました。このことを父親であるザカリヤは、神殿で香を焚くという一世一代の大舞台のさ中にガブリエルより預言されました。信じることができなかったザカリヤはヨハネが生まれて名前が付けられるまで、しゃべることができなくなってしまいました。聖書を読むと、どうもザカリヤは耳も聞こえなくなったようです。聖書は「言葉」を大切にする書物です。創世記で天地創造は神の「言葉」によってされたとあります。沈黙の闇に、神の言葉によって光が与えられました。聖書が大切にする「言葉」をここでザカリヤは失ってしまいました。子どもができた喜びも、これからの不安も言葉で共有することはできませんでした。
私たちは当たり前のように「言葉/言語」を使っていますが、「言語というものはかならず人と共有されて(熊谷晋一郎『ひとりで苦しまないための「痛みの哲学」』2013年、p.32)」いるもので、これを媒介して共感が広まっていきます。一方で「痛み」は完全に言葉にすることは難しく、「他者への痛みの真の共感とは、それは私にはわからない、私からはそこにどうしても到達できないということを、痛切に実感すること(同上、p.34)」と言えるのだそうです。私たちは苦しみの中にあって神に祈るとき、形になったような神の返答を聞くことはあまりありません。インマヌエル(神が共にいる)という預言はどのような意味があるのでしょうか。ザカリヤが沈黙の中を過ごしたように、私たちも神の言葉のない沈黙の中を過ごしているように感じる時もあります。しかしここでは、沈黙を通して神の業が示されました。私たちは言葉にならない痛みに囲まれて生きています。クリスマスの出来事を祝い、私たちはどのように生きることができるのでしょうか。
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