ルカによる福音書 3章1~14節 桝田翔希牧師
11月最初の主日、秋の訪れを感じるこの時に永眠者記念礼拝を守ることができましたこと感謝いたします。礼拝堂には120人以上の永眠された方々の写真が飾られています。教会の業の一つに葬儀というものがありますが、葬儀に際してその方の人生のお話を伺っていると、私などが葬儀説教でその人生を語ってよいのかと恐れることがあります。私たち一人一人は全く違う人生を歩み、「差異」を持つ存在です。文化人類学の松村圭一郎先生は「個人」は他者との関係性の中で認知されると書いておられました。例えば多くの場合、「ある人が『子ども』であるのは、あきらかにその『親』との関係において(松村圭一郎『NHK出版 学びのきほん はみだしの人類学 共に生きる方法』2020年、p.18)」であり、私たちは差異のあるだれかとの関係の中で自己が規定されます。差異がなければ格差もありませんが、神は差異のあるように人間を作り、それを良しとされました。差異がなければその方の人生を紹介する葬儀説教をする必要もありません。
洗礼者ヨハネはイエスの先駆者として描かれる人物ですが、ルカによる福音書はこの人の周りに多くの人が集まって洗礼を求めた様子を記録しています。ヨルダン川で行われた洗礼を求めて、(一般の)群衆をはじめ徴税人や兵士も来ていました。群衆と対比すると、徴税人は税のピンハネなどで裕福であったことや、兵士は武力をもって人々を鎮めることができた存在でした。いわば群衆からは非難され恐れられた存在でした。いわば差異のある人々が集まっていました。しかし、ヨハネの洗礼は集まった人々に出家を求め職業や立場を除くことはせず、徴税人は徴税人のままで帰っていきました。
差異もなく死もなければ、人間は完ぺきな存在で格差も差別もなかったのではないかと思います。しかし、神は差異のある形として人間を創造し、良しとされました。一人一人が違うからこそ、召天者の写真を見て想像しきれない気持ちも抱きます。人間の小ささを自覚すると同時に、これこそが神の作られた世界の豊かさなのではないかと思います。
Comentarios