ルカによる福音書 21章25~28節 桝田翔希牧師
アドヴェントを迎え、クリスマスを待望する時期となりました。しかし、世の中は依然として新型コロナの脅威の中にあり、報道を見ていてもコロナ以外のことでも恐怖心をあおられます。新たな感染症の流行、環境破壊、地球温暖化、経済の崩壊、私たちは何とも言えない不安の中を生きています。これらの原因を罪を犯した人間に対する神の罰である、と言われることもありますが、環境破壊などはほとんど人災と言っていいと思います。しかし、今回の聖書箇所はすべての人間がいずれ裁かれるというような、恐ろしいイメージを抱く箇所でした。
この聖書箇所は、マルコによる福音書でも語られているものですが、比較するとルカによる福音書では天変地異の描写ではなく、それにまつわる人間への影響に重点が置かれています。それでも宇宙規模の天変地異が預言され、終末の世界が特定の地域や民族に限定されない様子があります。そして人々は恐ろしさのあまり、気を失うと書かれています。私たちは聖書にあるような天変地異を現実的に信じることができるでしょうか。よく考えてみると、先行きのわからないこの時代で、恐れ迷う私たちの姿は、この聖書箇所に書かれている人たちと重なるような気もします。繰り返しコロナの感染拡大を経験しつつ、未だに特効薬は開発されず、根本的には手洗いうがいと言った基本的な対策しかありません。旧約聖書は人間の罪の故に災害などが起こるということを、何度も書いています。ノアの洪水物語は洪水の原因を人間の堕落としますが、現代的な感覚から読めば信じられない箇所です。よく似た物語がギルガメッシュ叙事詩というバビロンの神話にもあるのですが、ここでは自然現象を象徴する神々が相談して洪水を起こしています。これと聖書を比較する時、聖書は「洪水の原因を自然現象から倫理的問題に考え直したユダヤ人の知恵(石田友雄『聖書を読みとく』2004年)」を読み取ることができます。
世界の状況を神の罰として、他者を裁くことは簡単なことです。しかし、案外、人災と呼ばれることが多く存在します。キリスト教は、排他主義が「キリスト者の心に深く彫り刻まれ(…略…)他の文化や宗教に属する人々を『神の子たち』と認めて受け入れることができなくなっている(C. S.ソン『イエス 十字架につけられた民衆』1995年)」とも指摘されます。混乱の世の中で、裁きの記事を読みアドヴェントを過ごす中で、私たちはどのように世界を見ることができるでしょうか。創造の神は私たちに何を望んでおられるのでしょうか。
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