ルカによる福音書 11章33~4節 桝田翔希牧師
伝道師として赴任して初めての仕事は、ガソリンスタンドに灯油を買いに行くということでした。これならば簡単と張り切って、車ですぐのガソリンスタンドにポリタンクを積んでいきました。意気揚々と帰ってきて、トランクを開けるとポリタンクが倒れており、パッキンが古かったこともあり、灯油が漏れていました。忘れられない伝道師時代の出来事です。「漏れ」という日本語にはネガティブなイメージが付きまといます。「申告漏れ」、「予選漏れ」、「空気漏れ」、「雨漏り」、どれもネガティブなイメージの言葉です。江戸中期の思想家で医師であった安藤昌益は、生命の根拠を「洩るる(漏る・こぼれる)」と説明したのだそうです。私たちは現代社会にあって、自然のものすべてを漏らすことなく支配し活用しようとします。また、フードロスのような観点から見れば、「洩る」ということはもったいないことになります。私たちは「洩るる」に、どのような生命の根拠を発見することができるでしょうか。
今回の聖書箇所では、「体のともし火は目である」という箇所と「ファリサイ派の人々と律法の専門家とを非難する」という二つの箇所が含まれています。前の部分では、体の外から入るものが隈なく魂をも照らすということでしょうか。続くファリサイ派の人々とのやり取りでは、ファリサイ派の人たちは食事の前に手を洗わないイエスへの批判がされています。今回の聖書箇所では外側と内側の清さの乖離ということが共通するテーマかもしれません。清さということで考えると、イエスが批判したのは当時の行き過ぎた「律法主義」でした。職業などの事情で律法を守ることができない人たちや、律法で清くないとされる病にかかった人たちは徹底的に排除されたり差別される状況がありました。ですのでファリサイ派の人たちが、食事の前に手を洗って身を清めないイエスを見て怒ったのは当然です。この姿は律法を前に「漏れ」を許さない姿勢です。
アン・ビクレーと地質学者のデヴィッド・モントゴメリーは『土と内臓』という本の中で、「植物は、光合成で生じたブドウ糖を全部自分の生命維持のエネルギーに用いているのではなく、根を通じて、土壌中の微生物たちに分け与えている(藤原辰史『縁食論—孤食と共食のあいだ』2020年、p.156)」と語りました。これを指して農業史が専門の藤原辰史さんは自然界の「漏れ」の姿を指摘しています。生物に集まってくる微生物というのは必ずしも不必要なものを分解するのではなく、植物がブドウ糖を漏らすように「漏れ」出たものにも集まっているということです。生き物や世界というものは、それぞれが緩やかに共存しているということなのだと思います。私たちの社会は漏れを許さない完ぺきな管理が求められている社会ではないでしょうか。ファリサイ派の人々の姿と重なるものではないでしょうか。私たちは「漏れ」に生命の根拠を見ることができるでしょうか。欠けの多い人間は、灯油のポリタンクのような存在なのかもしれません。
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