マルコによる福音書 14章12~25節 桝田翔希牧師
この一週間で大きな話題になったのは、国葬でありました。安倍晋三さんが暴力によって殺害されたということは、許されることではなく、悲しみの中で見送りの式を行おうという気持ちも否定されるものではありません。しかし、国葬について各社の世論調査では反対が上回る結果となり、「世論を二分した」とまで言われました。そのような中で行われた国葬でしたが、祭壇には多くの勲章が飾られていました。その中のひとつは死後すぐに叙勲されたもので、日本では最高位の勲章だそうです。加えて死後には位階の最高位も授けられていたそうです。人間は平等であると言われる昨今に、このような位階や勲章というものがあることに違和感を覚えました。そのシンボルが祭壇には飾られていました。
マルコによる福音書14章12節からは、最後の晩餐と呼ばれる有名な場面が書かれている箇所です。最後の晩餐が行われた時期はユダヤ教の大きな祝祭日である「過越祭の食事」に続いて行われました。この食事は出エジプトを思い出す伝統的な行事で、男性も女性も子どもも集まって行われるものでした。しかし、ここで聖書は弟子たちが席についていたとします。そしてこの場面をモチーフにした絵画では、四角いテーブルにイエスと弟子たちだけが席につく様子で書かれることがよくあります。「最後の晩餐が内輪の催しであることにずいぶん価値が置かれている(C. S. ソン『イエス 十字架につけられた民衆』1995年、p.314)」ような印象を与えるものでもありますし、「あなたは見物人であっても、参加者ではない」というような印象を受けるものです。イエスが示したメシア像は、ダビデの系譜にあるようなこの世的な王的メシアではありませんでした。イエスの食卓は、選ばれた人だけが地位を与えられて就くことができるというように解釈してはいけないのではないでしょうか。
私たちは日本という社会に生きていると、人間が神格化されていくことにそれほど違和感を持たなくなってしまいます。イエスのこの食卓の招き主(主人)であるわけですが、王的なメシアではなく、苦しみや痛みの中を共に歩むメシアでした。歴史は「苦しみを被る立場におかれたすべての時代の男たち、女たち、子供たち―中略―を別にしては、その歴史を理解することはできない(C.S. ソン1995年、p.311)」のです。分裂や抗争の絶えない世の中ですが、イエスの食卓は私たちにどのような問いかけをしているのでしょうか。
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