ルカによる福音書 12章14~41節 桝田翔希牧師
10月も終わりの頃となり、気温の変動が激しいですがいよいよ秋といった季節を迎えています。実家に住んでいたころは、田んぼに囲まれていましたので、稲の様子を見て秋を感じていましたが、一人暮らしをしてからは田んぼから遠いところにばかり住んでいるので、田んぼを通して秋を感じることが無くなりました。実家の近くには田んぼが多いので、カントリーエレベーターと呼ばれる施設がよくありました。これも尼崎に来てからはあまり見ない気がしますが、この施設は農協が米を乾燥・貯蔵・出荷する設備で、農家の仕事を軽減するもので、大きな利点がある設備です。
「愚かな金持ちのたとえ」とする聖書箇所では、豊作の恵みを受けた大金持ちがあれこれ考えるというたとえ話です。元々あった譬え話に、編集過程で導入と結論が追加されるという、ルカによる福音書によくある形として収録されています。金持ちの人は、収穫物が収めきれないので、新しい倉を作ります。どれほどの収穫量だったのかはわかりませんが、「畑(16節)」と訳されている言葉は、「コーラ」という単語で一枚二枚の畑というよりかは「地域」というような意味を持つ言葉で、大規模農場であったということが背景とされているようです。それ程の収穫量であれば、カントリーエレベーターほどの倉が必要だったかもしれません。これを収めるために金持ちの人はあれこれ考えます。この姿は私たちにとって、何ら不思議なものではありません。貯蓄をしてこれからに備えるということは多くの場合でなされます。しかしこの人は神の声により、「今夜、お前の命は取り上げられる。(20節)」と語られます。
「取り上げる」のは神のように読めてしまいますが、この単語は「三人称複数」で語られており、「行為の主語は(不特定の)『彼等』『人々(山口里子『イエスの譬え話』2018年、p.151)』」ということになります。補うならば「命が(彼らによって)取り上げられる」ということになります。彼等とはだれか、恐らくこの畑(地域)で働いていた労働者たちではないでしょうか。多くの人をこき使いながら、利益はすべて自分のものとして、自分のことしか考えない金持ちに対して、不満が募っていたのではないでしょうか。この金持ちは誰に相談するわけでもなく、一人で考え続けていました。しかし、多くの同労者がいたはずです。私たちは自らの功績を示そうとしてしまいます。しかし、神の恵みであることを忘れてはいけないのではないでしょうか。神の恵みを忘れた時、分かち合うことも忘れた時、その時に響いたのが「取り上げる」という神の声だったのではないでしょうか。
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