マタイによる福音書 20章1~16節 桝田翔希牧師
「ぶどう園の労働者のたとえ」とされるこの物語は、マタイによる福音書にのみ記されています。ぶどう園の主人が、雇用を求める労働者が集まる広場に行きます。そこで一日のうちで何度か労働者を雇用します。仕事が終わり支払いの時、主人は雇用時間に関係なく1デナリオンを支給しました。この話は「主人=神」として、分け隔てのない神の愛を伝えていると解釈されることが多かったと思います。しかし「主人=神」という前提をなくした時、イエスが提起しようとしたことは違うことだったのかもしれません。
ぶどう園の主人は、一日で何度も広場に向かいます。これは作業の進み具合に応じて雇用を調整し最低限の労賃に抑えるという意図が感じられます。丸一日働いた労働者は12節で「暑い中を辛抱して働いた」と訴えますが、この「暑い」というのは「砂交じりの熱風」の中で働いたということです。この訴えを聞いた主人は「友よ」と呼びかけますが、雇用者と被雇用者にある非対称な関係は無視されています。労働者の訴えは簡単に握りつぶされてしまうのです。「気前のよさをねたむのか」と主人は反論しますが、1デナリオンとは成人2人が一日生活できるほどしかない金額です。主人にとっては「気前」云々の額ではないのではないでしょうか。ここには「犠牲者を責め弱者を貶める『強者の論理』(山口里子『イエスの譬え話1 ガリラヤ民衆が聞いたメッセージを探る』2014年)」が描かれているのではないでしょうか。イエスの話を聞いていた人たちは、主人と労働者どちらに共感していたのでしょうか。
広場で労働者を雇用するという描写を見たとき、私は寄せ場と呼ばれた釜ヶ崎の風景を思い出しました。労働者の声を抑え込むべく手配師が介入し、経済の安全弁として労働者は利用されていきます。私たちが生きる社会も、イエスが批判したシステムを有するものであります。神の国とはどんな人も幸せに生きる世界のことです。この世に生きる私たちに、神は何を語りかけておられるのでしょうか。
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