マタイによる福音書 18章21~35節 桝田翔希牧師
学生時代にネパールに行ったとき、まず驚いたのは「物乞い」と呼ばれる人たちの多さでした。道端に座って手を差し出す人、赤ん坊の食事がないことを訴える女性、食べ物がないと迫ってくる子どもたち、はじめはどうしたらよいのかわからず、悩みました。旅行書には「子どもに悪影響を及ぼすから渡さないほうが良い」とも書かれています。しかし「旅行者」として、その人たちが抱える生活がわかるはずもなく、渡すべきなのかそうでないのかということはわからずじまいです。
「仲間を赦さない家来のたとえ」とタイトルのつけられた聖書個所では、数千億円の借金をした家来が登場します。必死に頼み込んだ家来を見て、その主君は「憐れ」に思い、帳消しにしました。しかし、その家来は自分に100万円ほどの借金をしている人を見つけると容赦なくとらえて牢に入れてしまいました。主君の行動の理由を聖書は「憐れ」という言葉で説明しますが、その家来は「憐れ」という感情を持つことは説明されていません。この「憐れ」という単語は福音書の中でたびたび出てくるもので、「内臓」から出るような激しい感情の動きを表しており、日本語では「断腸の思い」という訳語があてられることもあります。家来は感情を忘れて他者をせめてしまったのです。
文化人類学の松村圭一郎という方が『うしろめたさの人類学』という本の中で、人間(特に日本の)が経済的なもののやり取り・交換モードに従う姿を分析しておられました。この交換モードは時として感情や「『うしろめたさ』覆い隠」し正当化するのではないかと書いておられました。物乞いを見たとき、対価としてお金を払う必要はないので、辛そうな生活や大変さを想像・共感しつつも、その感情は覆い隠され無関係でいることが正当化されていきます。私たちも経済的な流れの中で生きていて、多くのものを消費します。しかしこの生活の中で、次第に感情が抑圧されているのかもしれません。「憐れ」という言葉にある、共感の気持ちを忘れてはいけないのです。
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