マタイによる福音書 10章16~25節 桝田翔希牧師
この歳になると「夏休みの宿題」からも解放されました。しかし、夏というと研修が多い季節でもあります。「夏休みの宿題」は無くなりましたが、この歳になっても勉強はしなくてはいけないのだなぁとしみじみ思います。沖縄の伊江島で反戦活動を貫かれた阿波根昌鴻さんは「頭の勉強」が大切だと語られました。米軍が土地を奪おうとするとき、日本の文化や歴史を細かく学んでいたのだそうです。「頭の勉強」は大切ですが、しかしそれだけだと「だますために勉強した米軍とかわらない」のであって、「心の勉強」も大切だ(阿波根昌鴻『命こそ宝 沖縄反戦の心』1992年)と阿波根さんは語りました。阿波根さんは「銃剣を持ってくる人の立場」も考え、喧嘩みたいな闘争ではいけないと言われましたが、これは「心の勉強」という言葉の実践の一つでした。
今回の聖書箇所では、弟子たちが受けるであろう「迫害」について語られています。少数者であった原始キリスト教会は様々な迫害を受けるわけですが、その様子は、「すべてを食い尽くそうとするオオカミの中に投げ込まれた羊」のようなものでした。さながらキリスト教は「小さな叫び声」をあげる集団でした。イエスはこの状況のなかで「蛇やハト」のようにかしこく素直に生きなさい、と励ましの言葉を語りました。社会を見ていますと、「敵と味方」を区別して自分たちが団結して相手を食い尽くそうとする人間の姿というものがあります。数が少ないと負けてしまいますので、キリスト者の数を増やせば、迫害など亡くなり肩身の狭い思いをすることもなくなるでしょう。しかしイエスは「オオカミ(強者)」になれとは語られませんでした。自分と違う考えの他者に出会っても、打ち負かすのではなく相手の立場も尊重する姿があるのではないでしょうか。
阿波根昌鴻さんは、奪われた土地を軍用地として契約することに反対する「反戦地主」の闘いをされました。この闘いは経済的な締め付けや、日本政府の法律による締め付けにより、一時期反戦地主の数は大きく減りました。しかし「ただの一人でも最後まで耐えるなら、勝利は絶対確実である(阿波根昌鴻、同上)」と語られました。ここには数の論理ではない、また反戦の気持ちを持ちながらも軍用地として契約せざるを得なかった人々の叫びがあります。今日のキリスト教は数も多くなり、迫害されることは少なくなりました。しかし、自分たちを絶対化するのではなく、「オオカミ」のようになってはいけないと思うのです。そこに「心」は忘れられていきます。イエスの言葉と比較して、現代のキリスト教が忘れてしまった叫び声があるのではないでしょうか。
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