マタイによる福音書 13章24~30節 桝田翔希牧師
畑の近くを歩いていて、一本のネギが落ちているのを見つけました。なんてことない風景ですが、なぜそこにネギが落ちているのか、私はその時、納得したことがありました。以前、教会にあった畑でネギの育て方を習いました。ある程度育ったねぎを抜いて乾かす「ネギのホシアゲ」という行程を習いました。そうすれば、後々の成長がよいのだそうです。畑の作物はほおっておけば育つということではないということを知りました。道端に落ちていたねぎは、恐らく干し上げの時にこぼれてしまったものだと思います。
マタイによる福音書で毒麦のたとえというものが語られていますが、ドクムギは日本ではあまりなじみのない植物であります。育ち始めは麦とそっくりだそうですが、実をつけた姿はハッキリと麦とは区別できるようになる植物のようです。実には特有の菌が生息していて、それが毒素を生成するのだそうです。麦畑の世話をするというのも大変手間のかかることだったと思います。「野菜は人間の足音を聞いて育つ」という言葉を教えていただいたことがあるのですが、麦も何度も何度も世話をしてやっとできるものだと思います。世話をする立場からすれば、不要な植物は早く取ってしまいたいと思うものであったことでしょう。
イエスは農業に関係するたとえ話を多く語りました。当時のガリラヤはローマ帝国の支配下でありましたが、「ガリラヤ地方は交易の中心地としても期待される土地(星野正興ほか『人間イエスをめぐって』1998年)」であり、輸出用の作物が大資本に拠って栽培されだしたという状況が推測されます。このことは同時に、小作人や日雇い労働者をも生み出すものです。これまでの農業ではなく、新しいシステムの中で富が一部の人に独占され、一方では金銭の貧しさがおこり出しました。そのような苦しい状況におかれた農業従事者たちもイエスを囲む群衆の中にはいたことでしょう。商品だけ見ればただの麦です。しかしそこには多くの作業や悩みがあるのです。
農業には長年の経験に裏打ちされる判断や多くの知識が必要です。大切な畑にドクムギが生えるということは見過ごすことのできないことです。しかし、それを眺めてじっと待つということも大切なことだったのでしょう。現代では消費の現場と生産の現場は遠く離れることがよくあります。たとえ話の中には社会が変わる中で忘れられていこうとしている生活をイエスが示そうとしたものがあるのではないでしょうか。
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