マタイによる福音書 12章43~50節 桝田翔希牧師
私たちは様々な属性をもって生きています。例えば、「長男」であったり「母親」、「男・女」、「子ども」など様々な属性が個人にはあります。これらは人間につけられる「ラベル」のようなものとも言えます。ラベルがあった方が世の中は理解しやすいのかもしれません。しかし時としてこのラベルは、押し付けられることがあります。「長男なんだから」とか、「母親なのだから」とか、このようなことは日常生活でもよく聞くものです。
マタイによる福音書12章46節からの部分では、イエスを「母や兄弟」が訪ねています。当時の社会も、父親や長男が一家で大切にされる「家父長制」がありました。家父長制という枠組みで言えば、イエスは長男でしたので家を継ぐために宣教の旅に出るのではなく、家にいてほしいというのが家族の願いであったことでしょう。家族の思いとしては、イエスを連れ戻そうとしていたことでしょう。しかし、訪ねてきた家族に対しイエスは「わたしの母とはだれか。わたしの兄弟とはだれか。」と冷たく言い放ちます。イエスと家族ということで考えると、クリスマスに飾られる「聖家族」の置物が思い浮かばれます。生まれたばかりのイエスを見つめるマリアとヨセフのまなざしはとても暖かいものです。しかしイエスの発言には、このような聖家族の温かさを引き裂くものです。
マタイによる福音書はイエスの誕生を描くとき、「マリア」という名前を知っていながら、今回の箇所では個人名を出すのではなく「母」という属性(ラベル)だけで説明しています。ここには、イエスが「長男」という属性でしか見られていないという状況があるのではないでしょうか。属性を「押し付けられることは、それ自体が暴力になり得る(加藤秀一『知らないと恥ずかしい ジェンダー入門』2007年)」のであり、かけがえのない個人としての出会いはありません。イエスの宣教での出会いは、「罪人」や「病を患った人」というラベルを通した出会いではありませんでした。ここでイエスが家族を冷たく突き放したのは、家父長制という枠組みで人間が判断される状況を批判したのではないでしょうか。私たちも様々な属性・ラベルを抱えながら、他者も同じように分類してしまうことがよくあります。ここでなされるイエスの訴えは、「長男なんだから」という既成概念のラベルを打ち破るものだったのではないでしょうか。
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