マタイによる福音書 7章1~14節 桝田翔希牧師
7月第一の主日を迎えました。梅雨の真っただ中といった季節です。4つの福音書はそれぞれの視座でイエスの言葉を記録しましたが、時代や生活の背景に違いがあるので少しずつ書かれることが違っています。しかし、私たちが生きる今日と比べると、どの時代も非常に生活に苦しいものであったと思います。経済的な部分、医学的な部分、私たちの日常では考えられないような些細な理由で人間が死んでしまうことがあったと思います。
マタイによる福音書7章では、山上の説教と呼ばれるテキストの後半の一部分が記録されています。ここでは「目の中のおが屑」というたとえ話に続き、「求めなさいそうすれば与えられる」という有名な言葉が続いています。「求めなさい」という部分ですが、イエスが祈る場面は福音書で何度か描かれていますが、イエスこそ神に求めることは与えられるのだという確信があったのだと思います。
学生時代にワークキャンプで何度かネパールに行ったので、ネパール語の学習というものをしていました。ネパール語で「ありがとう」に相当する単語はあるのですが、日本語のようにどの場面でも使えるのではなく、非常に重い意味での「ありがとう」を意味する単語があります。「ありがとう」に種類があるという概念は、日本語を話しているとあまり感じないので新鮮な思いでした。しかし感謝の思いを「ありがとう」以外の方法で伝えるというのはとても難しいものでした。私たちは「対価」というものを前提として生きているのかもしれません。自立して生きることが当然とする風潮があるようにも思いますが、対価を前提とするのではなく互いを助け合うことを前提とする社会システムもあります。「ありがとう」を軽い対価として使っている自分に気づかされます。
求めれば与えられる、神から与えられる恵みは対価を求めるものではありません。それでも私たちは感謝しつつ祈るわけですが、イエスの言葉を見る時、ここには対価を前提とした私たちの生き方とは異なる姿があります。私たちは神に対して気軽にありがとうと言える立場にはいません。隣人との関係が神との関係の延長線上にあると思うとき、ありがとうと言わない隣人との関りというものはどんなんだろうと思います。
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