最近、「在野」という言葉を知りました。「在野」とはもともと、「公職に就かずに活動する」という意味なのだそうですが、大学に所属しない研究者を「在野の研究者」とも呼ぶのだそうです。教会で働いていると、どうしてもこなさなくてはいけない事務作業をはじめ説教の準備など教会が運営されていくうえで必要な執務が多くなります。教会という組織に守られた範囲でしか生きていない自分というものに気づかされます。
マタイによる福音書9章9節では、「マタイを弟子にする」という見出しがつけられていますが、このマタイは徴税人でした。徴税人は当時にあって、ローマ帝国の権力を帯びた存在として嫌われていました。イスラエルはユダヤ教によって国の政治が行われていたわけですが、そういう場合に宗教の研究者や活動家は政府によって大切にされる存在です。ユダヤ教の教えを厳しく守ろうというファリサイ派の人たちというのも、政治にはなくてはならない存在であったことでしょう。そのような庇護のもとにあったファリサイ派の人々ですから、ローマ帝国の手先と言える徴税人を赦すことができませんでした。しかし、憤慨するファリサイ派の人たちにイエスは「行って学びなさい」と語りました。
私たちはこの世の生活の中で、様々な地位につき、時には組織に守られて生活します。次第に「御用学者」と呼ばれるような、組織に反対することが言いづらくなることがあっても、生活があるので、気づかないうちに組織の在り方にとどまってしまうものです。ファリサイ派という立場では、徴税人と食事を共にするということは不可能でした。しかし、そのような立場や地位を捨てるというところに、イエスの「行って学べ」という言葉が集約されるのではないかと思うのです。イエスの活動は、故郷の人たちから支援が舞い込むという形ではなく、守られたものではありませんでした。ただ神に仕えるというものでした。私たちはどの視点からイエスの活動を見ることができるのでしょうか。
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