マルコによる福音書 7章1~13節 桝田翔希牧師
アドヴェント第二の主日を迎えました。待降節とも呼ばれる期間ですが、アドヴェントと言った方がしっくりくるのは私だけでしょうか。この言葉は「到来」という意味のラテン語に由来するそうですが、意味は知らずに「アドヴェント」という言葉を今までよく考えずに使っていました。私たちは「カタカナの言葉」を、意味は特に考えずに日常会話で使っているという場面が、よくあるように思います。
今回の聖書箇所で、エルサレムから来た権威あるファリサイ派や律法学者たちが、手を洗わずに食事をする弟子たちを指摘しています。ユダヤ教では食事前に宗教的に清めるという意味で手を洗うという習慣があり、これは現代にも伝えられています。この行為は旧約聖書の律法にそのまま規定されているというよりかは、律法を破らないために考え出された習慣でありました。この習慣をイエスは「言い伝え」として批判します。この聖書箇所の前の部分では病に苦しむ人たちや、嵐の湖の上でなすすべもなく漂う弟子たちの姿が描かれています。生活の苦しさや人生の悩みの中を生きる人間に必要なのは、律法を守る作法ではなく、律法を守る原因(神の愛)だったのではないでしょうか。律法学者たちの、神の愛を説かずに表面的な作法しか指摘していない姿が、ここにはあります。
先日、性差別に関する学びをしていて、「ジェンダー」という言葉の歴史を知りました。なぜ、日本語化して使わないのかと思っていましたが、この言葉には多くの歴史があり、この言葉(概念)を使って現代社会の差別性が多く研究されてきました。「ジェンダー」という言葉には、闘いの歴史が込められているのではないかと私は思います。世界的な歴史の流れを簡単に日本語に当てはめることはできないのだと感じました。私たちの周りには、ユダヤ教の習慣のように、多くの習慣があります。特に考えずに行う習慣や、言葉があります。しかし、その一つ一つに様々な意味があり、時には闘いの歴史があります。神の愛を説かずに表面的な作法しか見なかったファリサイ人たちのように、私たちも闘いの歴史を忘れて表面的なことしかなぞらない、自分に都合のよいようにしか言葉を使わないということがよくあると思います。イエスの批判は私たちにも突き刺さっているのではないでしょうか。
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