ヨハネによる福音書 11章28~37節 桝田翔希牧師
11月の第一日曜日は聖徒の日とされており、この日にあわせてこれまで尼崎教会に連なり天に召された方々を覚える【永眠者記念礼拝】が守られています。この時にあって「死」ということについて改めて考えさせられます。最近は「多様性」という言葉がよく用いられ、社会の中には様々な人が生きているということが言われます。生きるということに多様性があるのですから、「死」にも多様性があり、「死」を取り巻く様子にも多様性があります。それはとても一言では表すことができないものなのでしょう。
今朝の聖書箇所では、イエスと親交のあったラザロという人の死という場面が描かれています。当時は死後より3日は「もしかしたら生き返るかもしれない」ということが言われていたようです。現代のように、脳波や仮死という概念もないので、愛する家族の死を前に「もしかしたら」と思うことは不思議ではありません。現代に生きる私たちも、そう思うことはあるのではないでしょうか。しかし、この場面でラザロは死後4日でありました。「もしかしたら」という希望も断たれ、ラザロの姉妹であったマリアとマルタはまさに悲しみに直面していたのです。この様子を見たイエスは、憤りそして涙を流しました。どのような気持ちだったのか、聖書の記述だけではとても想像することはできません。神であると同時に人間であったイエスは、ここで人間としての感情の渦巻きを素直に表しておられます。
科学や医学が進んでも、人間の心は目で見ることもできずわからないことが多くあるように思います。悲しみの原因がわかるときもあれば、分からない時もあります。人間の心は簡単に平静には戻らない時があります。イエスの心の動きも一言では説明できません。論理的な物事が多い今日では、多くのことが一言で片づけられてしまいます。しかし、私たちが直面する「死」は決して一言では片づけられません。言葉にできないこともあります。しかし、神はそのすべてをご存じなのです。マリアやマルタの涙は希望へと変えられました。弱さや苦しみをさらけ出したのです。感情渦巻くイエスを見た時、私たちの中にも説明できないような感情があることに気づきます。予測不可能を抱えながら、私たちも生きています。しかし、ここから神の祝福があらわされたのです。
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