top of page
masuda4422020

2021年11月7日説教要旨「悲しみの行方」

ヨハネによる福音書 11章28~37節 桝田翔希牧師


11月の第一日曜日は聖徒の日とされており、この日にあわせてこれまで尼崎教会に連なり天に召された方々を覚える【永眠者記念礼拝】が守られています。この時にあって「死」ということについて改めて考えさせられます。最近は「多様性」という言葉がよく用いられ、社会の中には様々な人が生きているということが言われます。生きるということに多様性があるのですから、「死」にも多様性があり、「死」を取り巻く様子にも多様性があります。それはとても一言では表すことができないものなのでしょう。

今朝の聖書箇所では、イエスと親交のあったラザロという人の死という場面が描かれています。当時は死後より3日は「もしかしたら生き返るかもしれない」ということが言われていたようです。現代のように、脳波や仮死という概念もないので、愛する家族の死を前に「もしかしたら」と思うことは不思議ではありません。現代に生きる私たちも、そう思うことはあるのではないでしょうか。しかし、この場面でラザロは死後4日でありました。「もしかしたら」という希望も断たれ、ラザロの姉妹であったマリアとマルタはまさに悲しみに直面していたのです。この様子を見たイエスは、憤りそして涙を流しました。どのような気持ちだったのか、聖書の記述だけではとても想像することはできません。神であると同時に人間であったイエスは、ここで人間としての感情の渦巻きを素直に表しておられます。

科学や医学が進んでも、人間の心は目で見ることもできずわからないことが多くあるように思います。悲しみの原因がわかるときもあれば、分からない時もあります。人間の心は簡単に平静には戻らない時があります。イエスの心の動きも一言では説明できません。論理的な物事が多い今日では、多くのことが一言で片づけられてしまいます。しかし、私たちが直面する「死」は決して一言では片づけられません。言葉にできないこともあります。しかし、神はそのすべてをご存じなのです。マリアやマルタの涙は希望へと変えられました。弱さや苦しみをさらけ出したのです。感情渦巻くイエスを見た時、私たちの中にも説明できないような感情があることに気づきます。予測不可能を抱えながら、私たちも生きています。しかし、ここから神の祝福があらわされたのです。

閲覧数:29回0件のコメント

最新記事

すべて表示

2024年11月17日説教要旨「幸いである」

マタイによる福音書 5章3~8節 桝田翔希牧師 先日、能登半島地震・水害のボランティアに行きました。大きな震災から9か月後に水害が起こり、復興に向けて「がんばろう」と外に住む私たちはとても言えないような状況だと思います。よく神の導きを祈りながら、何とか自分たちや知り合いの人...

2024年11月10日説教要旨「マムシの子」

マタイによる福音書 3章7~12節 桝田翔希牧師 日本基督教団は英語で表記すると「The United Church of Christ in Japan」となります。この「ユナイテッド」という単語は「結ばれた、連合した」という意味の言葉ですが、ここには、誰によって結ばれた...

2024年10月20日説教要旨「イエスの祈り」

ヨハネによる福音書 17章13~26節 桝田翔希牧師 10月17日で尼崎教会は1896年の創立から128年を数えました。この間、多くの方々が尼崎教会に連なり、そして祈りの中であってこそ、128年を数えることができました。この128年を振り返る時、戦災や震災など多くの出来事が...

Comments


bottom of page