マルコによる福音書 13章5~13節 桝田翔希牧師
聖書の中には、神の審判による歴史の終わりとして、「終末」という思想が所々に描かれています。数千年前の世界は現代とは違い、戦争や病気による死はもっと身近にあり、もうすぐ世界が終わるのではないかという感覚は強くあったのではないかと思います。しかし、現代に生きる私たちは、「この世が終わる」という感覚はあまりないようにも思います。世の中には神に審判をしてほしいと思うような不条理がたくさんありつつ、このような状況がずっと続いていくような気がするものではないでしょうか。
今朝の聖書箇所では「終末の徴」とタイトルがつけられ、「地震・飢餓・戦争」と恐怖心をあおるような言葉が続いています。これらは終末の兆しを表すものとして聖書の中では考えられてきました。聖書が書かれた時代にあっては、これらの事柄は身近にあり、現代と比べて実感できるものでありました。弟子たちは大金をかけて建造された神殿を見てすばらしいとの声を漏らします。しかし、荘厳な神殿には金持ちが多額の献金をする一方で、今日の生活すら苦しい人も献金をしていました。このような非対称的な姿をイエスは批判しました。イエスが生きた後、実際に神殿は戦争で陥落してしまいました。形あるものの終わりがあったのです。私たちはこの終末の記事をどのようにして読むでしょうか。どこか実感なく読んでいるように思います。
今週は障がい者週間とされる日です。「障害」という考え方については、1970年代に大きな変革があったそうで「障害とは、障害者の体の中に宿るものではなく、少数派の体と、その体を受け入れない社会との『間』に生じる摩擦こそが、障害なのである(熊谷晋一郎『ひとりで苦しまないための「痛みの哲学」』2013年)」というようなことが言われたのだそうです。そう言われて思い返してみると、長い時間をかけて社会は変わっているように思います。様々な人が使いやすいデザインが町の中ではよく見かけるようになりました。歌手のサム・クックが「A Change Is Gonna Come」の中で「ほんとうに長い時間がかかった でも私は知っている 変化はやってくる(訳はブレイディみかこ『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー2』2021年より)」と歌ったように、終わりがないように感じられる社会も少しずつ変わっているのだと思います。終末があるからと何もしないということではなく、私たちは少しずつ変わる社会の中で聖書を読んでいるのです。
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