マタイによる福音書 21章28~32節 桝田翔希牧師
言葉があふれる現代にあって、どこか言葉が持つ力が弱くなっているように感じます。しかし、その中でも政治家が言っていることは特に信用できない気分がします。疑いすぎることはよくないですが、しっくりこないというようなものでしょうか。一方で私たちも、言っていることと行動が伴っていないということがよくあり、反省させられるものでもあります。
本日の聖書個所では、親からぶどう園で働くようにと言われた二人の兄弟が登場します。兄は言われたことを拒否しますが、そのあとに後悔してぶどう園で働きます。弟は言われたことを肯定しますが、働きにはいきませんでした。この話では兄のほうが神の国に近いのだといわれています。このたとえ話は律法学者や祭司長たちに向けて批判的に語られています。律法学者たちは、言うならば聖書の専門家であり、言葉の専門家でした。政治にも関与していたことでしょうし、安定した立場にある人が多くいたことでしょう。すなわち、このたとえ話の中でいえばいい返事をして働かなかった、言葉だけだった弟と律法学者が並べられているのです。一方で律法学者たちが蔑んで「地の民」と呼んでいた人たちのほうが神の国の視点・イエスの視点では誠実だというのです。
林竹二という教育哲学者は「学んだことの唯一の証は変わることである(日本基督教団部落解放センター『人間に光あれ部落解放へのメッセージ』2014年、犬養光博「宗教と部落差別」)」と語られたそうです。私たちは日々いろいろな学びをします。時には痛みを伴う経験を聴き教えられることもあります。その時は心が動くものですが、私たちはどれだけ生き方が変わっているのでしょうか。私たちの心は時としてかたくななものです。しかし、その固定概念を突き動かそうと、イエスの言葉は発せられたのではないでしょうか。
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