マルコによる福音書 7章14~23節 桝田翔希牧師
私は幼いころからエビが好きで、一人暮らしをする今でもよくエビを買ってしまいます。しかし、ユダヤ教では旧約聖書に基づく、コーシェルと呼ばれる食物規定があり、「ひれやうろこがある生き物」しか食べてはいけないとされ、エビは食べられないことになっています。特に食物規定のない日本で暮らしていると驚くような決まり事ですが、これらの規定は旧約聖書の研究で紀元前6世紀ごろのバビロン捕囚の時期に確立されたと言われています。王国が滅亡し捕囚民として外国で暮らさなくてはいけない、周囲には異教徒がたくさんいる、という状況の中で聖書の神を信じるイスラエルの民としての団結の方法の一つとして、食物規定は確定していったようです。
マルコによる福音書7章では、ファリサイ派の人たちと、食事の前に手を洗うことや、食物規定についての議論が書かれています。これらはユダヤ教における宗教的な決まり事でありました。しかしイエスはこれを否定するのです。キリスト教はユダヤ教から分かれていくわけですが、「食物に関わる考え方と姿勢の相違がキリスト教が分かれる原因の一つとなった(山我哲雄「旧約聖書とユダヤ教における食物規定(カシュルート)」2016年)」とも言え大きな問題でした。これらの決まりごとの一部は、元々、辛く厳しい捕囚という経験の中で、共に生きるために作られたものでした。しかし、ファリサイ派の人たちは他社を裁くためにこの教えを用います。団結のための伝統は、分断のための道具になってしまったのです。
「手を洗う」という行為や「外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もな(15節)」いという言葉は、コロナ禍にあって現実味のある言葉ではないでしょうか。手洗いうがいに気を付け、ウイルスが入らないようにマスクをする。命を守るための知恵(知識)です。しかし、一方で様々な事情が個人にはあり、マスクができない人、アレルギーなどの理由でアルコールが使えない人もいます。しかし、街中でマスクをつけない人を見つけると、違和感を持つことがあります。感染症対策ができていない事象は、すぐに批判の対象となります。分断が世の中を包んでいます。イエスがファリサイ派の人たちの律法解釈を批判された場面を見る時、ここには共に生きるために聖書の言葉が読まれているように思います。裁くために聖書を用いるファリサイ派とは対照的です。しかし、コロナ禍にあって私たちも知識を振りかざしてファリサイ派の人たちの姿のようになってしまっている時もあるのではないでしょうか。
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