マタイによる福音書 25章1~13節 桝田翔希牧師
独立自給の教会としての尼崎教会の歴史は、1896年10月17日に始まりました。しかしそれ以前から、講義所の設立など前史とも呼べる歴史もあります。そして戦争や震災で2度にわたり会堂がなくなり、特に戦争にあっては多くの資料が失われ、今となってはわからなくなった歴史も多くあります。歴史を語るとき、世間では偉人などを中心に語られることが多くあります。しかし、教会は「偉人」と人間が認める人だけではなく、多くの祈りによって支えられているということをこの時にあって思い起こします。
「十人のおとめのたとえばなし」との聖書箇所では、結婚式という場面で「賢い人」と「愚かな人」に分けられています。終末に備えて信仰というものを準備する、という解釈が多くされたたとえ話であります。しかし「天の国は次のようにたとえられる」という言葉について、聖書学者の山口里子さんは新たな解釈の可能性を与えておられます。「たとえる(ホモイオー)」という単語は「たとえる・なぞらえる」という意味だけではなく「比較する」という意味もあります。「たとえる」ではなく「比較する」という意味で再解釈すると、「この話を神の国と比べてみてみよう。どんな風に違うだろうか?(山口里子『イエスの譬え話2 いのちをかけて語りかけたメッセージは?』2017年)」となります。このたとえ話の中に出てくる10人の女性は「賢い・愚か」と二分されてしまいます。なぜ賢いのかというと、社会的に求められていることに応えられるかどうかという、規範的な判断があります。能力主義によって人々が二分されているのです。油を用意していなかった女性たちは、無情にも締め出されるという罰(サンクション)が与えられました。油を分け合うこともしない、近くにいた人は何も助けない、個人の能力主義が重要視されています。神の国と比べたらどうなのでしょうか。
歴史を振り返るとき、能力のある偉人がたたえられます。しかし、決して歴史に名を残す人だけが尼崎教会にいたわけではありません。神さましか知らない祈りをささげる人もいたことでしょう。私たちが住む世の中には能力主義が重く横たわっています。教会と神の国を比べてみて、126年目の歩みを進めてまいりましょう。
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