マタイによる福音書 22章15~22節 桝田翔希牧師
近頃は結婚ということに関連して、「天皇」という言葉を頻繁に聞くようになりました。キリスト教の教会にいると、神道という文脈の中で語られる「天皇」については少し遠いところにいるようにも感じます。イエスが生きた時代、イスラエルはローマ帝国に支配され、デナリオン銀貨にはローマ皇帝の肖像と「アウグストゥスの子、神なる皇帝ティベリウス・カエサル」という言葉が刻印されました。聖書の神を信じるユダヤ人にとってはとても屈辱的なことであったことでしょう。政治によって進行が脅かされるという経験は現代では信じられないことです。
この聖書箇所では「皇帝への税金」というタイトルがつけられています。イエスの一行はエルサレムに入城し、三宅嫁など象徴的な行動をとります。その一連での論争が今日の物語です。ファリサイ派の人はイエスを攻撃しようと「皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか。(17節)」と質問します。神聖皇帝に税金を納めるというのは律法違反(宗教的立場)でありましたが、税金を納めないと公言すればローマの反逆者(政治的立場)となりました。どう答えてもイエスを罪に問うことができたのです。私たちは、日々の生活の中で「正しさ」を求めてしまうのではないでしょうか。法律的な正しさ、聖書的な正しさ、風習的な正しさ、様々な規範に照らして自らの行動を考えます。そして時には二元論的な考えに陥り、間違いと正しさを切り分けてしまいます。しかしここでイエスはどちらが正しいのかという「合法性」による答えはされませんでした。
何が正しいのかという判断は時代によって揺れ動きます。「お金と宗教」という観点で見れば、それは切り離せないものにもなってきました。しかし、世の中は経済に支配され「神と富とに仕えることはできない(マタイ6:24)」との言葉を知りながらも、お金という偶像に支配されてしまう生活があります。偶像崇拝とは言いかえれば「人間が自らの手でつくったものに命をささげて、死に至ること(キリスト教文書センター『本のひろば10月号』2021年、福嶋揚「『金と神』について考えるなら この三冊」)」とも言えます。「皇帝とキリスト教」という観点で見れば、日本基督教団は天皇崇拝を推奨し戦争に加担した歴史もあります。聖書を読んでいると、聖書による正しさを主張してしまう時があります。しかし、そこには「合法性」を求めてしまう場合があることを忘れてはいけないと思います。イエスの答えは、「居心地の良い答え」を提供するものではなかったのではないでしょうか。
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