マタイによる福音書 9章35節~10章4節 桝田翔希牧師
日本基督教団は、宗教団体法という宗教団体を戦時体制に協力させるという動きの中で1941年に合同・設立されました。そして教団は過剰といえるほどに戦争に協力することとなります。当時は神社参拝が国民の義務とされていましたが、靖国にまつられる英霊をキリストの血になぞらえて解釈されるということもありました(「靖国の英霊」)。そして「アジアの平和」のために戦争は正当化され、このこともキリスト教の視点から積極的に解釈されました。そして「日本基督教団より大東亜共栄圏にある基督教徒に送る書翰」というものも作成されます。礼拝するべき神の他にも、礼拝するものがあったというのが戦時中の教団だったと言えるのではないでしょうか。
マタイによる福音書9章35節からは「群衆に同情する」とのタイトルの物語があります。ここで群衆たちは「群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれている(36節)」と表現されます。これはイエスの後をついて歩き疲れたと言うよりは、「福音の視点」から群衆たちという視点があります。「羊飼い」を神のイメージに重ねるということは旧約聖書でもよくありました。「飼い主がいない」とはすなわち、人間が神を見失ってしまっているということです。神を信じながらも、別のものを信じてしまう人間の姿があります。続く10章でイエスは12人の弟子を選んでいます。12という数字は聖書の中で大切な数字ですが、ここではイスラエルの12部族と重ねて考えると、12人の弟子とは「新しいイスラエル」を意味していると考えることができます。
キリスト教の中で「信仰告白」というものがありますが、これは「状況に対してキリストを証しする(岩井健作『兵士である前に人間であれ―反基地・戦争責任・教会―』2014年)」という姿勢があります。すなわち「闘いの印(岩井健作、2014年)」と言えます。教団の戦争責任告白は、戦時中に神以外を礼拝したこと、戦争を正当化したキリスト教解釈という状況に対した証です。羊飼いを無くした羊の群れのように弱り果てたキリスト教であったけれども、新しい明日のために、私たちも戦責告白にある「闘いの印」を大切にしたいと思います。
Comments