マタイによる福音書 7章15~29節 桝田翔希牧師
7月第二主日は【部落解放祈りの日】とされる日です。社会は昔と比べて経済も発達して、私たちの生活は大きく変わりました。しかし、生活や歴史が変わっても社会は差別を抱えています。現在でも多くの差別がこの世に存在しています。悪意に満ちた差別落書きやインターネットの書き込みがあり、一方では差別が次第に正当化され気づかないうちに差別を行う人間が生み出されていきます。すべての差別がなくなりますように、と祈るものでありたいと思います。
マタイによる福音書7章は、山上の説教と呼ばれる個所の最後に当たります。ここでイエスは「にせ預言者」という言葉を使います。教会の指導者の中にふさわしくない人がいたようです。キリスト者や教師という肩書があっても、それで人が完璧になるわけではないということです。木が実らせる果実でその木を知るようにと続けられます。私たちも長い年月の中で自ら生じるものを、厳しく吟味する必要があるということでしょう。過ぎ去った過去の積み重ねで人間が形成されていくのです。また「『主よ主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない(21節)」とも語られています。「主よ主よ」という言葉は「信仰告白」の事でしょう。信仰深い姿がここにはありますが、最後の判断は神にしかできないのです。教会は信仰を大切にする共同体です。しかし、人間の視点で信仰深いと思えても、それが間違いを犯さない人間になるのかというとそうでもないと思うのです。
誰でも頑丈な基盤の上に建てられた家のように、ゆるぎない人間になりたいものです。しかし、岩の上に家を建てる時、頑丈であると同時に建てるには大きな苦労があるでしょう。自然の岩ですから掘ったり削ったり、大変な作業です。私たちは実によって判断されるというとき、自らをよくよく吟味します。神の前で自分を顧みる時、思い出したくないこと、どうしようもないような自分の残酷さも見ます。それら一つ一つを丁寧に見返すことは、岩を掘るような痛く大変な作業です。しかし聖書は岩の上に家を建てろと語ります。楽な生き方ではない、自らを省みて一つの場所で安心するのではない、神の世のために生きるのです。私たちは気づかないうちに差別のシステムに巻き込まれています。人を見下し利用するシステムの中で生きています。この当たり前はどうすれば気づくことができるのでしょうか。
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