マタイによる福音書 18章10~14節 桝田翔希牧師
「人の命は平等である」ということは、現代社会では広く浸透している意識であると思います。しかし、これとは違い人間の命に優越をつける「優性思想」と呼ばれるものが垣間見える時もあります。すべての命が大切にされるという「あたりまえ」が、時として崩れる社会に私たちは生きているのかもしれません。
「迷い出た羊のたとえ」では、100匹の羊の内の1匹が迷い出てしまい、それを羊飼いが探しに行くという場面が描かれています。現代で羊を買おうとすると少なくとも数万円はかかるようで、100匹の羊を所有しようとすれば数百万円かかることになります。そして、100匹の羊というのは一人の羊飼いが所有するような数ではなかったようです。当時「通常の家族が所有する羊は5-15匹ぐらい(山口里子『イエスの譬え話1』2014年)」だったようです。また100匹というのは、一人で世話できる羊の数ではなく複数の羊飼いがいたことも想定できます。ですので、ここで登場する羊飼いというのは、お金持ちに雇われた羊飼いであったということが想像できます。現代のように、雇われ人の生活はそれほど保障されたものではなかったことでしょう。仲間を残して羊を探しに出て、見つけた時は大きな喜びがあったと思います。
聖書学者の山口里子さんはこのたとえ話が話された状況は、ごく一部の人が大富豪となり搾取が行われ、そのような構造の中で貧民化・奴隷化する人たちが現れ、それまであった共同体意識やホスピタリティ(もてなし)が失われようとしていた時代であったのではないかと指摘されていました。多くの羊を所有できるお金持ちは、「地の民」と差別される羊飼いの仕事を雇い人に任せていました。そして格差の中で人々の共同体が分断された時代であったのかもしれません。利益のために「あたりまえ」は崩され、人権は無視されていきます。たとえ話はこれらの様子を指して「神の御心」を提示して締めくくります。私たちも格差のある社会に生きていますが、神の御心とは何なのか、聖書は今も問いかけているのではないでしょうか。
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